青青日記

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ミステリーボニータ1月号に「三国志ジョーカー」
 昨日5日に書いたようなわけです。本当にすみません。

 本編再開ですが、仲達なぞときせず。
 このまんがって名探偵司馬懿くんっていうコンセプトじゃなかったっけ。仲達のヒロイン化が止まりません。

 兵隊といえば酒とギャンブルだろ、というイメージを青木に植えつけたのは『三銃士』と『戦争と平和』だと思います。(世界文学をひきあいに出しての自己弁護。)
 曹一族が大好きで描いてるはずなのに、描けば描くほど全員アホキャラになっていく罠・・・

 曹氏と孫氏との縁組は、本当は《曹彰&孫賁(孫権の従兄)の娘》と《曹操の姪&孫匡(孫権の弟)》の二組ですが、2カップル出てくると面倒なので、まんがでは1つにまとめました。

 あと別冊ふろく『世にも不思議な占術ミステリー』に「八卦の空」より劉朱姫の回が再録。
 この話の元ネタは「広異記」より。柳少遊という占い師の話。(『中国古典文学大系24 六朝・唐・宋小説選』所収)

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揚州の豫章郡 そんで。歴オタ的にいま知りたいこと。
 ブログに書くと賢い人が教えてくれたりするので、書いてみる。

○揚州の豫章郡の変遷、右図で合ってますかね。
 こういうことを専門でやってるサイトがありそうなものだとググったけれど分からなかったのです。
 孫策時 廬陵郡を分割
210年 鄱陽郡を分割
257年 臨川郡を分割

○当時の船旅のスピード。
 まあ地形や天候に左右されると思うので、一概に言えないものでしょうが。。。
 地図でアバウトに測ると、赤壁戦のとき劉備がいた江夏から孫権のいた柴桑まで、長江で245kmくらいなんですが、諸葛亮や魯粛は何日くらいで移動したんでしょうかね。。。 
 船旅スピードの史料、どっかに落ちてないかな。。。

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追記:上の解答編
 ○揚州の豫章郡の変遷
 ○赤壁戦の直前、樊口から柴桑まで、諸葛亮や魯粛は何日くらいで移動したのか
三国志ジョーカー |2011.12.06 Tuesday 18:28 | comments(3) | - |
こんにちわ。
性懲りもなく食い付いてみます(笑)

まず豫章郡についてですが、『晋書』巻十五地理志下 揚州に

獻帝興平中、孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立[番β]陽郡、分丹楊立新都郡。孫亮又分豫章立臨川郡、分會稽立臨海郡。孫休又分會稽立建安郡。孫皓分會稽立東陽郡、分呉立呉興郡、分豫章・廬陵・長沙立安成郡、分廬陵立廬陵南部都尉、揚州統丹楊・呉・會稽・呉興・新都・東陽・臨海・建安・豫章・[番β]陽。臨川・安成・廬陵南部十四郡。

とあるんで、あと孫皓が豫章・廬陵・長沙を分けて立てた安成郡が加わりますね。『三国志』巻四十八孫皓伝に「是歳(寶鼎二年)、分豫章・廬陵・長沙為安成郡。」とあるので、紀元267年のことです。
ただ『中国歴史地図集』第三冊 三国・西晋時期を見てもよく場所が判りません(汗)


それと船についてですが、それは私も前々から気になってました。
良い機会なので、ちょっと思い当たるままで見てみます。
今、「破竹の勢い」が参考になるかと思い付いて、『晋書』巻四十二王濬伝を見てみたんですが、戦闘の部分も含んでいますし、そもそも軍事の場合と一般の場合では違いますので、参考になりそうにないです。
そこで『太平御覧』を見ると、巻七百六十八から舟部がありますので、「里」をキーワードに見ていくと、『太平御覧』巻七百七十 舟部三 舸に

王隱『晉書』曰:顧榮征(徴拜)侍中。見王路塞絶。便乘船而還。過下[丕β]。遂解舫為単舸。一日一夜行五六百里。遂得免。

とありました。
「舫」は『説文解字』に「舫、并船」とあり、連なる船であり、「舸」は『方言』に「南楚江湘凡船大者謂之舸」とあり、南楚・江湘地域で言うところの船の大きい物のようです。
なので状況的に、中央の官の侍中である顧栄が船に乗って帰っている状況にあり、下[丕β]を過ぎているので、大雑把に言って西向き、つまり上流へ向かっており(回り道をしていて下流方向の可能性もありますが)、それに加え船団から抜けた単独の大船で進めば、一昼夜で五、六百里行った、ってところでしょうか。

あと以前、漢簡や長沙走馬楼呉簡を研究対象にした金 秉駿 氏による「古代中国南方地区の水運」という研究報告を一般聴講していたのですが、そこらへんの簡牘研究がもしかすると参考になるかもしれませんね。
http://www.kyuko.asia/book/b93149.html

高村武幸氏の『漢代の地方官吏と地域社会』の「第二部 漢代官吏の社会と生活」「第一章 秦漢代地方官吏の「日記」について」で、尹湾漢墓簡牘「元延二年日記」と周家台三〇号秦墓竹簡「秦始皇三十四年暦譜」の出土史料を元に官吏の一日の移動距離(約30-40km)について論じてあって、場所によっては「河川交通の利用も想定され」ていますが、史料からは河川交通なのか河川沿いの交通網なのか判別できないようです。
http://www.kyuko.asia/book/b9728.html

それらの簡牘群から何かないか読み取っていくのが一番でしょうが、そこらへんの労力となると研究レベルになりそうですし(汗)
| 清岡美津夫 | 2011/12/07 7:25 PM |
まずは『呉船録』でしょうね。参考にすべきは。時代こそ違いますが。
| 古中 | 2011/12/07 10:42 PM |
>清岡 さん
>中古 さん

貴重な情報ありがとうございます!!
ツイッタでも情報をいただいたりしたので、
あとでまとめて記事にでもしますね。
ただいままとめを書いてる余裕が無くて・・・
何事にも仕事が遅くてすみません。。。
| 青 | 2011/12/10 11:24 PM |









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