青青日記

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陳羣の年齢について
 陳羣は生年の記録がありません。
  陳羣(?〜236年)
 まあヒマにまかせて年齢の推定をしてみることにしました。

 まず推定の手がかりとして出仕年を見ます。

 劉備臨豫州,辟羣為別駕。(魏書・陳羣伝)
 劉備は豫州を支配すると、陳羣を召して別駕とした。

 劉備が豫州を支配してたのは194年。
 『正史三国志』読んでて初出仕の年齢は20歳くらいの人が多い気がするので(※)、このとき陳羣が20歳とすると、175年生まれになります(数え年なので)。孫策・周瑜と同じ年、曹丕とは干支ひと回り違う(卯年)ことになります。
 (※ 推定に当たって一番大事なところがアバウト。)

 ただ、気になるのは『世説新語』です。(世説新語=南朝宋の劉義慶(403-444年)の著。後漢末から東晋までの著名人の逸話を集めた小説集。)
 『世説新語』では、陳羣は荀と同年代あつかいされています。
  荀(163年〜212年)(そういえばこの方も卯年・・・)

陳太丘詣荀朗陵,貧儉無僕役。乃使元方將車,季方持杖後從。長文尚小,載箸車中。既至,荀使叔慈應門,慈明行酒,餘六龍下食。文若亦小,坐箸□前。于時太史奏「真人東行。」(世説新語・徳行6)
 陳寔(陳羣の祖父)は荀淑(荀の祖父)をおとずれようとして、息子の陳紀(陳羣の父)・陳遒剖Δ鬚気察陳羣はまだ幼いので車に乗せた。到着すると、荀淑は8人の息子に出迎えさせたが、荀だけはまだ幼いので膝元に座らせた。このとき朝廷の天文官は「洛陽東方の潁川郡に聖人の星が集まりました」と報告した。

正始中,人士比論,以五荀方五陳。荀淑方陳寔,荀靖方陳遏よα嵎陳紀,荀方陳羣,荀敲陳泰。(世説新語・品藻6)
 正始年間には人物論評をするとき、荀氏の5人を陳氏の5人にならべた。荀淑は陳寔に、荀靖は陳遒法∵α屬歪諜に、荀は陳羣に、荀擇歪賃戮法△修譴召貳羈咾気譴拭

《参考に家系図 陳氏・荀氏》
陳羣の家計図荀の家計図

 ,里曚Δ覆鵑完全に陳羣・荀が同い年くらいの扱いなんですが。。。
 まあ、『世説新語』は小説だし、ファンタジーだし、考証に使うのは間違いなんだろうけど。でも△如∪技惑間(240年〜249年)とか言われると真実味あるよね。
 同世代なのに荀の娘婿ってどういうことなの。

 あとは、197年頃の話として無官の者が交友を広めるためには陳羣や司馬朗に会いに行ったらよいと評されたりしてるのも気になります。(魏書・禰衡伝)
 荀まで年長でなくとも、司馬朗(171年〜)・郭嘉(170年〜)あたりと同年代かもしれません。

 漫画の中では、あんまりおっさんなのもアレなので、175年生まれに設定しています。
 ご助言・ご指導求めます。
中国史オタ |2011.11.06 Sunday 23:59 | comments(4) | - |
※ごめんなさい。プレビューで大丈夫だったので、油断していました。先の投稿は[或〃]の字で文字化けしましたので、消して頂けると幸いです。

こんにちわ。
触発されて、あれこれ当たってみました。
特に必要ってことではないようなので、気軽に情報垂れ流します(…すみません・汗)。

まず基本で『三国志』巻二十二魏書陳羣伝の「魯國孔融高才倨傲、年在紀・羣之間、先與紀友、後與羣交、更為紀拜、由是顯名。」とのことなので、少なくとも孔融より年下すね。
『後漢書』列伝六十孔融伝に「時年五十六。妻子皆被誅。」とあり、『後漢書』本紀九孝献帝紀に「(建安十三年(紀元208年)八月)壬子、曹操殺太中大夫孔融、夷其族。」とあるので、陳羣は紀元153年以降生まれですね。

…と全然、絞れてないので(笑)、『三国志』を当たってみると、巻十一魏書袁渙伝注所引『袁氏世紀』に「布之破也、陳羣父子時亦在布之軍、見太祖皆拜。渙獨高揖不為禮、太祖甚嚴憚之。」とありました。
一瞬、建安三年(紀元198年)の時点で陳羣陳泰父子が揃っていると思いましたが、『芸文類聚』巻九十一 鳥部中 鴈に「續漢書曰.陳羣父子.並著高名.世號三君.毎宰府辟召.常同時旌命.羔鴈成群.當世者靡不榮之.」とあり、同じ様な記述で『三国志』巻二十二魏書陳羣伝注所引『先賢行状』に「于時、寔・紀高名並著、而[言甚]又配之、世號曰三君。毎宰府辟命、率皆同時、羔鴈成群、丞掾交至。」とあります。
つまり前者で「陳羣父子」と書きつつ主に陳紀(陳寔陳[言甚]を含めた三君の一人)の説明がされているので、『袁氏世紀』のは陳紀陳羣親子の可能性が高いですね。『三国志集解』でもそのような扱いですし。

それで『太平御覧』で「長文」と検索すると巻四百三十二人事部七十三強記所載袁山松『後漢書』に

荀淑與陳寔神交、及其棄朗陵而歸也、數命駕詣之。淑御、慈明從、叔慈抱孫文若而行。寔亦令元方侍側、季方作食、抱孫長文而坐、相對怡然。嘗一朝求食、(食遲)、季方尚少、跪曰:「高聞大人(與)荀君言甚善、竊聽之、甑壞飯成糜。」寔曰:「汝聽談解乎?」[言甚]曰:「唯。」因令與二慈説之、不失一辭、二公大悦。
 ※()内は『太平御覧』巻七百五十七器物部二甑所載袁山松『後漢書』で補いました。
 ※荀爽字慈明、荀靖字叔慈、荀[或〃]字文若、陳紀字元方、陳[言甚]字季方、陳羣字長文(自分向けメモ)

とあります。つまり、ここではそれぞれ文若も長文も抱ける程の大きさですので(まぁ当時、字(あざな)は未だ付けられてないでしょうが)、荀[或〃]と陳羣とが同年ぐらいってのはあながち間違いじゃないかもですね。

ちなみに袁山松『後漢書』は安部聡一郎「党錮の「名士」再考――貴族制成立過程の再検討のために――」(『史学雑誌』Vol.111 No.10(20021020)pp. 1591-1620, 1732-1731, ISSN 00182478)の注(2)によると「袁山松『後漢書』…東晋・安帝の隆安四年(西暦四〇〇年)以前の成立」だそうです。『世説新語』徳行の元ネタですかね。
| 清岡美津夫 | 2011/11/09 6:49 PM |
>清岡 さん

 さっそくコメントありがとうございます。
 こちらも気楽に書きますね。

 そういえば陳羣が曹操に仕えたのは呂布滅亡の198年以降でした。
 ブログ本文の禰衡伝の引用で「197年ころの話として〜」てのは「198年」ってことになりますね。禰衡は199年には死んでるし。
 (禰衡伝では「許都がまだ都になったばかりのころ」というような表現だったと思います。今ちょっと正史三国志が手元に無いので記憶ですが)

 198年の陳羣父子ってのは確実に陳紀・陳羣だと思います。
 陳羣は、曹操に仕えて以降に父親の喪で官を辞しているので、198年には父親が生きてたはずですから。笑

 袁山松『後漢書』はたしかに『世説新語』の元ネタですね。

 ブログ本文には書かなかったのですが、『世説新語』には、陳羣と陳忠(従兄弟)が、それぞれの父親を評論してると、祖父・陳寔が「兄弟の優劣は決めがたい」と言ったとゆうエピソードがあります(「兄たり難く弟たり難し」ということわざの原典・・・そんなことわざ使ったことないけど)。
 これを信じると、陳寔は187年に亡くなっているので、自分の設定のように陳羣175年生まれだと、祖父が死んだとき12歳・・・上の会話はちょっと無理かな、とか思いましたね。笑

 あと、
 父親の陳紀の字が元方
 陳羣の字が長文
 字から察すると、両方とも長男のような気がするので、陳羣は陳寔の嫡孫かな、と。
 陳寔は104年生まれで、その嫡孫だから、順当なら160年代生まれ・・・とかも思います。
 まさに荀イクと同世代ですねー。
 そ れ な の に 荀イクの娘婿なのかよ、と。
| 青 | 2011/11/10 1:29 AM |
こんばんわ、早速の返信をありがとうございます!
調子に乗ってさらに少し情報の垂れ流しします(御迷惑おかけします・汗)。
すでに陳羣から離れてますので一点だけ。
ブログの家系図で陳紀のところが「?〜?」となっていますので。

『後漢書』列伝五十二陳紀伝によると、「建安初、袁紹為太尉、讓於紀;紀不受、拜大鴻臚。年七十一、卒於官。」となっています。
『三国志』巻二十二魏書陳羣伝の「父卒」の部分に『三国志集解』では注がついており、「紀卒於建安四年六月見邯鄲淳陳君碑」(邯鄲淳が文を書いた碑の記載ですね)になっています。
まとめると、陳紀は「129〜199年6月」ってことですね。
| 清岡美津夫 | 2011/11/10 4:09 AM |
おはようございます。
清岡さん、早起きですねー。汗

>陳紀は「129〜199年6月」

ま じ で す か。
そうなると、陳羣はその長男だから、やっぱり荀イクくらいの年齢かもしれないですね。

『集解』かぁ・・・先日とうとう買ったんですけど、漢字ばっかりなんでやっぱり読めないんですよねぇ。笑
がんばれよ。俺。
| 青 | 2011/11/10 7:05 AM |









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